この文章は 「プーシキン。第一部」という文章に関するものです。
*
1811年に、ツァールスコエ・セロにツァールスコエセロー・リツェイという特権的貴族学校が創立されました。リツェイの創立は、ロシアを変革する計画と密接に関連しています。 リツェイは、変革の時代を迎えたロシアを指導していく人々を育成するために設立されました。
リリツェイの卒業者は、立派な教育を受けて、ロシアの変革を担うことが期待されていました。
それはアレッサンドラ1世の治世中でした。
彼は、エカテリーナ2世の孫です。前の記事でお話したアレクサンドロフスキー宮殿は、彼のために建設されました。宮殿の公園も彼にちなんで名づけられました。
リツェイという名称は、古代ギリシャのアポロンの神殿の名前です。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスによってアポローンの神殿の近くに設立された学園と同じ名が付けられたのです。 10代の男子学生がここで語学、哲学、芸術、体育などを学びました。 リツェイの授業は、公園を散策しながら会話をかわす形で行われることも、よくありました。
この文章の第一部は、ロシアの詩人アレクサンドル・セルゲーェヴィチ・プーシキンについての話から始まりました。 彼は、リツェイの開校から1817年まで、ここで学んでいました。
プーシキンスキというプーシキンにちなんで呼ばれた最初のリツェイの卒業生たちは、もっとも注目すべき人々であるとされています。
プーシキンのみならず、彼の同級生達も多くが様々な分野で優れた人物になりました。
リツェイの卒業生の中には、アレクサンドル・ゴルチャコフという外交官がいました。
彼の外交活動は日本にも関係があります。
1875年にゴルチャコフと駐露日本公使榎本武揚の間で千島樺太交換条約が締結されました。
ロシアは日本に千島列島の中部と北部の権利を割譲しました。その代わりに、 日本は樺太南部 の権利をロシアに譲渡しました。
現在、リツェイは博物館として公開されています。
リツェイの庭にプーシキンの像があります。 秋の季節になると、プーシキンの像の傍らには、花束のようにした紅葉が添えられています。
*
No comments:
Post a Comment