この建物の現在の正式名称はコングレスの宮殿です。しかし、サミット会場として機能しているのは2003年からなので、その名称は比較的新しいです。コンスタンティン宮殿という歴史的な名称の方がよく知られています。
同時は、大統領官邸でもあり、市民にはプーチン宮殿とも市民に呼ばれています。
コンスタンチン宮殿は、ストレルナというサンクトペテルブルグの郊外に位置し、フィンランド湾に面しています。
この家屋敷はロシアの1917年の革命まで皇室が所有していました。最初の所有者は、サンクトペテルブルグの創設者である皇帝ピョートルI世でした。それから、ここには皇室の様々な関係者が住んでいました。彼らのうちの一人は皇子コンスタンティン、ロシア皇帝ニコライ1世の息子です。この場所の名称は彼の名前に由来しました。
大祖国戦争(1941-1945)により、宮殿はほとんど破壊されました。戦後それは部分的に復元されました。
戦争が終わった後、建物は部分的に修復されました。北極カレッジがそこに設置されました。1990年代、カレッジが引っ越しました。宮殿は2001年まで放棄されていました。
当時、私はコンスタンティン宮殿の公園に、フィンランド湾の海岸に行くためにときどき行きました。公園はまったく荒れ果てたように見えたと覚えています。宮殿もとても怖かったです。今、その宮殿が虚無から戻ってきたようにだという言葉をよく聞きます。私はその言葉の意味がよくわかります。
2003年に復興する前はそう見えました。
当時、それは破壊の危機に瀕している歴史的文化遺産の記念碑としてユネスコのリストに含まれていました。
でも、自治体には、大修繕を行う資金がありませんでした。しかし、ついにお金がモスクワから来ました。
宮殿の運命には、誰も知らない人が役割を果たしたようだと話を聞きました。その話は、プーチン大統領がしました。ある日、庶民との大統領の会話の中で、ある人は宮殿を破壊 から助けることを大統領に求めました 。 その少し前, サンクト・ペテルブルグに海の大統領官邸があればいいと考え始めていました。海の大統領官邸というのは海から直接到着することができる大統領官邸ということです。 その名も知れぬ人の要請の後、当局はコンスタンティン宮殿に目を向けはじめました。
官邸を造るための資金を見つけることができました。それは一石二鳥ということになりました。
官邸を作って、記念碑を復活しました。最短時間で宮殿を復元することになりました。
家屋敷の再建は2001年にぐらい始まりました。宮殿の外観と内装、外壁や公園などは1年半かけて再建されました。
2003年に、サンクト・ペテルブルグが創立三百周年を祝った時、生まれ変わった宮殿はコングレスの宮殿として機能し始めました。2006年にそこで主要国首脳会議が行われました。
しかし、コンスタンティン屋敷の復元が気に入らない人々もいました。 なぜかというと、以前は自由に公園を散歩できたり、廃墟をさまよったり、海岸に行ったりできたのに今はできなくなったからです。 今は、見学を予約しないとそこに入ることはできません。宮殿も公園も特別保護地区になりましたから。
しかし、宮殿が今は前よりもずっと良く見えるという事実を誰も否定できないと思います。
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ここでコンスタンティン宮殿のインテリアの写真が少しあります。コンスタンティン宮殿へ。 散歩 2013/09/04
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