Nevsky prospect, 56 |
エリセーエフスキ店は、サンクトペテルブルクで最も有名な店の一つです。この豪奢な店は、1903年にグレゴリー・エリセーエフという起業家によって建設されました。
ネフスキープロスペクトという大通りにあるので、観光客の間でもよく知られている店です。
でも、この店の所有者の息子が東洋学者で、有名な日本研究者だったということを知っている人は、あまりいません。それが、私がこの記事を書く理由です。
エリセーエフ家の営利事業は、1813年から行なわれています。その会社は、植民地の商品を売っていました。 ロシアでは一番大きいワインセラーを所有していました。1876年から皇室御用達になりました。
グレゴリー・エリセーエフは、1896年からその事業を始めました。
彼には、五人の息子と一人の娘がいましたが、彼れらは、その事業に興味がなくて、相続したくありませんでした。
セルゲイ エリセーエフ |
ロシアに帰ったあと、彼は、サンクトペテルブルクの大学で日本語を教え、また、外務省で通訳として働いていました。
1917年の革命の後、セルゲイはフランスに移住することになりました。 1932年からは、アメリカのハーバード大学で働いていました。 彼はそこで、日本語、日本史、日本文学を教えました。 アメリカでは彼の前に日本学がありませんでした。 それで、彼が日本学の先駆者になりました。
もし、セルゲイが、あの時ロシアを去らなかったら、新政府の下で彼の運命が全く変わっていたかもしれません。彼の二人の兄弟は処刑されました。世帯主グレゴリー・エリセーエフは革命の前にロシアを去りました。1949年にフランスで亡くなりました。セルゲ・イエリセーエフは1975年86歳で亡くなりました。
ロシアには、 セルゲイ・エリセーエフについてある伝説があります。1945年の原子爆弾投下の前には、京都も破壊の対象として見なされていました。 当時のアメリカの主な日本学者であったエリセーエフと、政治の問題に関して相談しました。彼は京都を守りたかったそうです。合衆国政府は彼の意見が考慮されました。 日本人は、この話を 信じていないと聞きましたが、ロシア人は、信じています。
ドナルド·キーンというアメリカの日本学者についてご存知でしょうか。日本について沢山本を書きました。彼も、エリセーエフの生徒の一人でした。
革命後、エリセーエフスキ店は国家の財産となりました。
革命後、エリセーエフスキ店は国家の財産となりました。高級店としての評判を保持しました。
現在、昔のようにそこで食品が売られています。 値段はかなり高いので、多くの人々は、買い物をするためにはではなく、ただその店を見るためにはそこに来ます。
彼のことが知ることができてうれしいです。
ReplyDelete佐藤 さん、久しぶりですね! コメントありがとうございます!
Deleteこのお店のことは知っていたけど、創業者の息子が日本と深く関わっていたことは知りませんでした!興味深いです。
ReplyDeleteエリセーエフスキーは内装はきれいだけど、売っているものが本当に高いんですよね。私はあのお店で水しか買ったことがありません(^_^;)
私もペテルブルグの有名な名所が日本に関係があることを知ってとても嬉しかったです。ちなみに、私も一度もそこで何も買ったことがありません。
Deleteさおり、ひさしぶりですね!コメントありがとう!! :)