宮古島市に宮古島の研究を研究したロシア人を称える石碑 があります。 「宮古研究の先駆者 ニコライ・A・ネフスキーの碑」とそこには書いてあります。その石碑の近くには、彼にちなんで「ネフスキー通り」という名づけられた通りもあります。
ニコライ・ネフスキーは、もっとも傑出した日本研究者です。 彼は、1914年に日本語を学ぶために日本に行きました。 しかし、ロシア革命で帰国できなくなり、結局は14年間 日本で暮らしました。最初にアイヌ語の研究をして、それから、宮古島の方言の研究を始めました。そして宮古島の 民俗学的な調査を行いました。1929年に彼はサンクト・ペテルブルクに帰ります。サンクト・ペテルブルク市のレニングラード国立大学や東洋学研究所で働いていました。彼は日本で日本人女性と結婚しました。 娘も生まれました。彼の家族もサンクト・ペテルブルクに来ました。

東洋学研究所があった建物は、 生き残りましたが、現在ここは住宅です。東洋学研究者たちはこの建物で働いていただけではなく、ここで暮らしていました。 政府は教授にそこを宿泊所として提供しました。ネフスキーの他にも、そこには多くの有名な東洋学研究者が住んでいました。
1937年はロシアの歴史において悲惨な年でした。多くの文化人や研究者が、スパイとして誣いられ、銃殺されました。もちろん、彼らは罪を犯してはいませんでした。
ロシアはいろいろな分野の最高の科学者を失いました。 ロシアの科学にとってそれは大惨事でした。
ニコライ・ネフスキーも彼の妻とともに銃殺されました。
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Gorkovskaya station, Blohina str.17 |
1957年に夫妻の名誉回復がなされました。
2001年に平良市長率いる日本の代表団が、サンクトペテルブルクを訪れ、ニコライ・ネフスキーに関するすべての場所を訪問しました。
建物には、その歴史に伝えるものが何もないことに驚きました。 サンクト・ペテルブルクでは記念板が一般的ですが、その建物にも何も掛かっていません。
間もなく平良で石碑が建てられました。
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平良市。 ネフスキーカップルの娘 | http://miyakojima-kids.net/R-Nikolai-Nevsky.html |
こんにちは。アイヌ語や宮古島の方言は、話す人が少なくなったので、その言葉を守らなければいけないという記事を、新聞で最近読みました。ロシア人のネフスキーという人が研究していたことは初めて知りました。もし彼が殺されなかったら、素晴らしい研究が成されたのでは、と本当に残念です。東洋研究所があった場所は、ゴルコヴォスカヤ? サンクトペテルブルクの中心から近いですか?otmaa
ReplyDeleteこんにちは!そうですね!!彼は45歳だけでした・・
Deleteはい、町の中心部です。ペトロパヴロフスク要塞がある駅と同じ
こんにちは!とても面白い記事でした。
ReplyDeleteネフスキーが宮古島に住んでいたとは知りませんでした!宮古島は一年中暖かい(夏はとても暑い)島だから、ロシア人にとっては住むのは大変だったでしょうね。
Saori,ありがとう!(*_*)/
Deleteネフスキーについて聞いたことがあるんですね。
彼は宮古では長い間住んでいまないようです。ただ何度かそこに行きました。
普通大阪に住んでいたようです。