5 Oct 2014

プーシキン part 2。フョードロフスキー ゴロドク。



プーシキンという町について、紹介を続けます。 これは 私の文章「プーシキン」の第二部です。
第一の部分は ここ です。

今回は、この町と最後のロシア皇帝ニコライ2世とのつながりについてお話しします。


 1.

私は、エジプトのゲートを通り過ぎて、アレクサンドル・プーシキンの記念碑が建っている場所でバスを降りました。
このロシアの詩人については、第一章で既にお話しました。

ここからエカテリーナ宮殿までは歩いて20分ぐらいです。
実は、私の最初の目的は、エカテリーナ公園で散歩しながら秋の景色を楽しんで、草原に座ってゆっくり本を読むということでした。
そのため、ここからすぐにエカテリーナ公園まで行きたかったですが、途中で名所が多くて、それについて何も話さずにただ通り過ぎることは、私はできませんでした

場所: Oktyabarsky bulvar
と Dvortsovaya street の交差点

2.

少し遠くの木の後ろに大聖堂の黄金のドームが見えました。

私はそこに行きました。





この大聖堂は最後のロシアの皇帝とつながりがあります。

大聖堂に通じている路地でこの絵を見ることができます。これは、ニコライ2世と彼の家族の写真です。 「7月17日は王室の愛の勝利の日」と書いてあります。
1918年7月17日は、ボルシェビキが皇帝一家全員を殺害した日です。



3.

1905年にロシアの最後の皇帝ニコライ2世は、家族と一緒にペテルブルクからプーシキン(当時にツァールスコエ・セローと呼ばれていた)に完全に転居し、永住することに決めました。
アレクサンドロフスキー公園にある同名のアレクサンドロフスキー宮殿が皇帝一家の日常の住まいとなりました。
アレクサンドロフスキー公園の外側に近衛隊が配置されました。

皇室と近衛隊のために大聖堂が必要でした。
ニコライ2世は大聖堂を建設する場所をみずから指示しました。  そして、ニコライ2世は定礎式を施行しました。 フョードロフスキー大聖堂

フョードロフスキー大聖堂 (建設年: 1909-1912),  
場所: Akademichesky prospect 14

普通の教区民はここに入ることは許されませんでした。 彼らは、エカテリーナ大聖堂にお参りしていました。

エカテリーナ大聖堂/   住所は Sobornaya広場

* エカテリーナ大聖堂。 このエカテリーナ大聖堂は、1938年にソ連政府の命令によって爆破されました。最近、再建されたこの大聖堂は、この街の中心的な大聖堂として復活しています。

 4.

さて、 ニコライ2世の時代 とフョードロフスキー大聖堂に戻りましょう。


 大聖堂の近くに古代ロシア様式の建物の複合体を建設することとなりました。当時に、建物ばかりでなく周囲の環境も併せて、ロシアの古来からの伝統を復活するように配慮して計画されました。


フョードロフスキー ゴロドク
場所: Akakdemichesky prospect, 14—18    (建設年: 1909-1912)

フョードロフスキー  ゴロドク

この施設は、司祭の宿泊設備などとしても使えるものでなければならなかったのです。
さらに、建物のひとつには、古代ロシアの建築と芸術の博物館を設ける予定がありました。

これらすべての建物複合施設を総称して、 フョードロフスキー ゴロドクと名づけられました。
フョードロフスキー ゴロドクについては、お話ししたいことが山ほどありますが、今はとりあえず概略だけ紹介させていただきます。



5.

1914年に第一次世界大戦が始まりました。


フョードロフスキー  ゴロドクの建物は戦争で傷ついた兵士のための病院として使われていました。

 
 この写真はこの病院で撮られました。


写真の女性は、ニコライ2世の娘、マリア皇女とアナスタシア皇女です。

皇女たちは兵士の世話の手伝いをしていました。





この場所は、プーシキンとは別に、もう一人の有名なロシアの詩人とつながりがあります。この詩人は、セルゲイ・エセーニンです。日本では、あまり知られていない詩人かもしれませんが、ロシア文学の中では最も有名な詩人の一人です。


フョードロフスキー ゴロドクの 建物の一つに彼の顕彰板が掛かっています。
1916年にここでセルゲイ・エセーニンは病院付添い人として働いていました。


















    彼は皇女たちを相手に繰り返し自分の詩を朗読していました。
その時、彼が捧げた詩のなかには、彼女たちの不幸を予言していたかのような、ある詩もありました。

 В багровом зареве закат шипуч и пенен
Березки белые горят в своих венцах.
Приветствует мой стих младых царевен
И  кротость юную в их ласковых сердцах.
...Все ближе тянет их рукой неодолимой
Туда, где скорбь кладет печать на лбу,
О, помолись, святая Магдалина,
За их судьбу.

残念ながら私は、この詩の日本語訳を見つけることができませんでした。
この詩の最後の言葉は、「マグダラのマリア、彼女(皇女)たちの前途のために祈ってください」。
6.
フョードロフスキー ゴロドクは、国家の伝統を復活する象徴になるはずでしたが、1917年になると歴史の流れが劇的に変わりました。すべてにおいてまったく逆の事が起こりました。ロシアの伝統は、長い間に忘れられることになりました。

 ニコライ2世は1917年まで12年間ツァールスコエ・セローに住んでいました。1917年の革命の後、1918年7月、ニコライ2世と彼の家族は全員が殺されました。

 7.

今、フョードロフスキー 大聖堂の近くにニコライ2世の胸像があります。

 

胸像のそばに育っている楢の木は、ニコライ2世の家族によって植えられたものです。



この楢の木は、全部で7本が植えられました(ニコライ2世と皇后、その子供たち全員がそれぞれの木を植えました)が、現在は4本だけ残っております。
王室の墓石はペトロパヴロフスク大聖堂にあります。  そこには、はるかに多くの観光客が訪れ、賑やかです。
ここは静かで、楢の木の葉の擦れる音だけが聞こえます。
 特別な気持ちになる場所です。

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 遅くなった追加です:

 フョードロフスキー大聖堂の中には大きな教会のほかに下の教会という場所もあります。大聖堂の主なホールに入ったら、右には階段があります。その階段を降りてください。小さな教会を見ます。その教会はプライベートものでした。ここではニコライと彼の家族だけ祈っていました。

 





残念ながらその中には写真撮影は禁止です。インターネットで見つけた写真:

 


*
つづく

4 comments:

  1. Tanyusha, thank you for such an interesting story! Your Japanese is on a pretty advanced level, I think. I hope your articles will find many many readers in Japan! Keep writing! Michael

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    1. спасибо большое! за поддержку и добрые слова:)

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  2. こんにちは。ニコライ二世一家についていろいろ書いてくださってありがとうございます! アナスタシアの写真もあり、娘も喜びます! 今すぐにでもサンクトペテルブルグへ行き、地下鉄とバスでアレクサンドルフスキー宮殿と公園、そしてフョードロフスキー大聖堂を訪問したい気持ちでいっぱいです! 2010年に訪れた時にはアレクサンドルフスキー宮殿だけしか見学しなかったので。。。。。

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    1. こんにちは! ブログを読んでいただいてありがとうございます! 
      サンクトペテルブルグにもういちど行く予定があって嬉しいです。
      質問があれば、何でも聞いてくださいね!

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