10 Feb 2015

ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン






「坂の上の雲」の第9話を見ました。   広瀬武夫の死ぬところが出てきました。


もっとも感動したのは、ロシアの水兵が彼を埋葬した場面です。葬式は正教会の伝統にって行われました。 



映画によるとこの葬式には、旅順艦隊司令官ステパン・マカロフも参列していました。


その三日後、旅順艦隊の旗艦「ペトロパヴロフスク」が日本海軍の敷設した機雷に触れて爆沈しました。
旗艦「ペトロパヴロフスク」
旅順艦隊司令官ステパン・マカロフもこの戦艦と運命をともにしました。 
ステパン・マカロフは優れた提督であったので、 ロシア海軍にとってこれは重大な損失となりました。
 サンクトペテルブルクの西方、フィンランド湾に浮かぶコトリン島にある海軍要塞の町クロンシュタット(サンクトペテルブルク市クロンシュタット区)にはステパン・マカロフの記念碑があります。
 しかし、今日私の話マカロフについてではありません。




その戦艦ではマカロフと一緒にもう一人のある優れた人物が亡くなっているのです。彼はヴァシーリー・ヴェレシチャーギンという有名なロシアの画家です。
 大半の日本人はロシアの軍艦を沈めたことを喜んでいましたが、ヴェレシチャーギンの死を悼む日本人もいました。 小説家の中里介山は、彼を記念して嗚呼ヴェレスチャギンと題した追悼文を書きました。

平民新聞 5月15日

ヴェレシチャーギンは、戦争の風景をテーマとした絵を描いていました。これは、彼がその日に「ペトロパヴロフスク」にいた理由です。

   でも、どうして日本作家が彼の死にそんなに心を動かされたのか、そして、ヴェレシチャーギンと日本とはどんな関係があったのか、についてこれからお話ししましょう。


ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンと日本



 彼は、色々な国を沢山旅行していました。インド、シリア、パレスチナ、キューバ、フィリピン、中国などです。
しかし、若いころから彼の夢は日本に行くことした の夢は、亡くなる半年間前だけ叶いました。
1903年の夏に彼は日本にやって来ました。彼は、 日光と京都にしました。
  
この旅行の目的は日本文化と親しむということでした。  そのため、彼はいろいろなところを見物しながら歩きまわりました。そして彼はスケッチしていました。 
彼はロシアに帰国後、日本でのスケッチを基に、日本を題材にした写実的な絵画の連作を描こうとしていました。
彼が書いた日記によると、日本が好きになっていたようです。日本の美術、日本の自然、日本人に感動していました。
「日本人 は、貧 しくて生活の糧だけを毎日心配しているような貧しい人でさえも、美を楽しむ才能を持っている」と彼は日記に書いています。
ヴェレシチャーギンは、もうすぐ日露戦争が始まることを知りました。 でも、日本に滞在していた間は、彼は戦争について考えていなかったようです。彼は日本の美を楽しみそして自分の絵通じてそれをロシアに伝えたかったです。


日光の神社
ロシア美術館(サンクト・ペテルブルク)





日本の女性 (1904)


Прогулка в лодке (1903-1904)
ロシア美術館(サンクト・ペテルブルク)
Японский священник (1903-1904)
日光に住んでいた22歳の小杉放庵は、ロシアから来た画家に深い興味を持ち、ヴェレシチャーギンが泊まった家を訪れました。しかし、彼と会う勇気がありませんでした。ある日、小杉は、ヴェレシチャーギンが家にいなかったときに、訪れました彼は、画家の部屋を見せてもらえないかと家主に頼んでみましたが、結局断られてしまいました。

ヴェレシチャーギンは日本でいろいろな物を買い、持ち帰った荷物は非常に大きなものになりました。
信じられない話ですが、その中には日本庭園で手に入れた50キロの庭石もありました。 その石の上には小さなどの植物が生えていましたが、の松はロシアに帰途中でしおれてしまいました。
日本を描いた連作を作る予定は実現されていませんでした。 日本から帰国後ロシアには三週間しかませんでした。 その後、ポート·アーサーに向かいました。そこから、彼がロシアに戻ってくることはありませんでした。


*
 
  ヴェレシチャーギンは反戦の画家として、日本で知られていました。    それで、彼は戦争に反対であった文化人の中に有名でした。  

 ヴェレシチャーギンのもとも有名な絵は、『戦争の結末』でした。この絵は世界の平和主義者たちが反戦を訴えるために利用されました。


Апофеоз войны  戦争の結末 1871
127 x 197  cm
トレチャコフ美術館 (モスクワ)



この絵は画家の幻想による作品ではありません。
戦闘後、オリエントの征服者は、敵を脅迫するように敵兵の切断された頭部からそのようなピラミッドをつくりました。



当時は、戦争を悪として描写するのは、一般的ではありませんでした。当時の画家は、軍事パレード、行進やヒロイズムを描きました。戦争を題材とする絵の任務は、愛国心を喚起することのみ、とされていました。ヴェレシチャーギンは、戦争を悲劇として描写した最初の画家です。 ヴェレシチャーギンの作品は、多くが反戦の精神を持っています。

ヴェレシチャーギンは、戦争を写実的に描写するように心がけていました。 例えば彼は、死者、負傷者をたくさん描いています。 それで、彼の絵は、鑑賞者に衝撃を与えることもあります。

そのような絵の中にトレチャコフ美術館(モスクワ)にある 「打ち負かされたものたち、死者のための祈祷」という絵があります。
この絵では、司令官と司祭が殺された兵士たちに別れを告げています。
彼らは、死者の冥福を祈っています。

Побежденные. Панихида (1879)
 「打ち負かされたものたち、死者のための祈祷」
露土戦争 (1877年-1878年)  
179,7 x 300,4
トレチャコフ美術館 (モスクワ)




このような絵は、ヴェレシチャーギンの作品全体の雰囲気をよく伝えています。

Орлы.Забытый солдат (1885)
Павший воин



この絵には露土戦争においてロシアの勝利に終わった戦闘の様子が描写されています。
画家は、意図的に殺された兵士たちを前景に配置しています。 背景には、馬に乗って将官と彼に万歳と叫んだ兵士が帽子を上に投げています。
«Шипка—Шейново. Скобелев под Шипкой»  1878 
188 x 405
ロシア美術館(サンクト・ペテルブルク)
 

*


日露戦争は日本の勝に終わりました。
徳冨蘆花は、1906年にロシアに来て、サンクト・ペテルブルグの美術館でヴェレシチャーギンの作品を直接目にしました。 彼は、日本に帰ってから「勝利の悲哀」と題した講演をしました。
 彼はこの講演でヴェレシチャーギンの絵についても触れました。

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/antiwar/tokutomiroka02.html

 *


この記事の始めでは、 私は広瀬武夫を思い出しました。
彼は、模範的な軍人でした。
   多分、彼は兵士としては討ち死にしたがっていましたが、 彼がその戦争
の中で何のために死んだのか、私には分かりません。
 
彼は、サンクト・ペテルブルクに六年ほど住んでいました。ロシア人の友人が沢山できていました。
そして、ロシアの女性と恋をしたそうです。そして、愛するロシアの女性もいたそうです。彼は人間としても優しい人だったようです。もしそうならば、彼は、心の奥底では戦争に反対だったと思います。


彼の遺体がロシアの水兵たちによって埋葬されたことに、何か象徴的なものを感じます。

  ステパン・マカロフは掛け替えのない人物で、ロシア海軍は日露戦争の終結まで彼に替わりうる者を見つけることができませんでした。彼が亡くなると、ロシア軍の士気が衰えました。

ヴェレシチャーギンは、日露戦争の情景を人々に伝えることができませんでした。  でも、彼の死そのものは反戦プロパガンダの挿絵のようなものになりました。彼の死は、戦争に反対している人々にとっては象徴的です。 ロシア兵士は広瀬武夫を悼み、日本の作家と文化人はヴェレシチャーギンの死を深く悼みました。彼の日本についての連作を見られないのは残念ですね。

В горах Алатау (1869-1870)


*
サンクト・ペテルブルクでは ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンの作品がロシア美術館の第28ホールにあります
http://www.virtualrm.spb.ru/rmtour/zal-28-1.html

3 comments:

  1. Tania, こんにちは!育弘です。今回のあなたのブログの内容も拝見させていただきましたよ!大変見事な内容ですね。実は、僕は大学生時代に日露戦争や、司馬遼太郎の『坂の上の雲』について論文やレポートを何度か書いたことがあります。ですが、ヴェレシチャーギンについては、まったく知りませんでした。あなたの好奇心のたくましさは素晴らしいと思います。司馬遼太郎の言葉で、日本人として僕にとって大切な言葉があります。それは「日本人はつい、自己の絶対化をする癖がある。それが昭和の日本を滅ぼしたのだ」というものです。第二次大戦当時、日本人は緒戦の快進撃に喜び、国内の反戦論者をのけ者扱いして、弾圧したり迫害しました。日露戦争の時に、与謝野晶子が旅順にいる弟にたいして詠んだ詩『君死にたまふことなかれ』も大変な非難を浴びました。ロシアの事情はよく知りませんが、日露戦争のときにトルストイがロンドンタイムズに反戦論を発表したことなどは有名な話ですね。徳富蘆花はのちにトルストイに心酔し、ロシアに行ってトルストイから、たしか「君は自分自身の言葉で自分を考えたことがあるかね?」という大切な言葉をもらって、こころの平安を得ました。ロシアは偉大な思想家や芸術家を輩出する風土なのかもしれません。それは、僕が考えるには、あなた方ロシア人は厳しい自然の中で一生懸命生きているからだと思っています。またね!

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    1. 育弘、親切な言葉と興味深いコメントをいつもありがとうございます!
      あなたがこの課題に詳しくあるのですね。 
      私は与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』を読みたかったですが、ロシア語の翻訳を見つけませんでした。
      『坂の上の雲』の映画と言えば、旗艦「ペトロパヴロフスク」について何も言っていないようです。
      その戦争について私が言ったいことがたくさんありますが、日本語で難しすぎです(^_^;;;)

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  2. Hi, Tania! 育弘です。『坂の上の雲』は、全部見終わりましたか?あなたのブログを読んでから、昔『坂の上の雲』をこちらのテレビで見たときのことをだんだん思い出しました。原作者の司馬遼太郎は生前、この作品をテレビや映画にしてほしくないと言っていました。小説の原作を読むと、戦闘場面はあまり出てきません。その代わりに、政治的なかけひきが世界規模で描かれています。このことは、のちに第二次大戦を始めた日本人にとって重要な意味を持っています。司馬は第二次対戦のときに兵隊として徴集されて満州にわたり、終戦間際の本土決戦の時ににわかに本土に帰ってきて、栃木県佐野という場所で、アメリカ軍の上陸を待っていました。そして、そこで敗戦を迎えました。司馬は「日本人はどうしてこんなバカな国になって、自分はいろいろ下らないことをしてきた国に生まれたのだろう。日本の歴史は長く、ここまで生き延びてきたのだから昔の日本人はもう少しましだったのではないか」と思って、歴史小説を書くことを思い立ったと言います。晩年には「自分は、敗戦の時の23歳の自分に手紙を書くつもりで小説を書いてきた」と語っています。司馬が経験した日本の第二次対戦は、しなければならない理由が全くない戦争を、国力が圧倒的に上のアメリカに自分から仕掛けるというものでした。そこで、司馬は、日露戦争を検証することによって、昔の日本人を理解しようとして、40代の10年間を費やして『坂の上の雲』を書いたのでした。僕がテレビの『坂の上の雲』を見て一番感動したところは、奉天陥落の日の朝、満州の荒野で日本陸軍総司令官大山巌と児玉源太郎が太陽を拝みながら短い会話をするところです。大山は「ここらあたりがキリじゃな」といいます。すると児玉は「はい、3月もすればロシアは更に巨大になって帰ってきましょう。東京へ帰ります」と大山へいいます。「講和条約を急がせもんそか(いそがせるのですね)」「はい、火をつけた以上、消さねばなりません。」そして最後に大山が「ほいなら児玉さん、よかふうにお願いしもす(そうしたら児玉さん、よろしくお願いいたします)」といって司令部へ去っていくのです。この大山の最後のことば「よかふうにお願いしもす」に僕は一番感動しました。この言葉は江戸時代から続く日本の組織における意思決定の方法の伝統をあらわしています。大山巌は薩摩藩出身の武士でした。薩摩藩には戦国時代よりつづく、独特な士風がありました。それは「おはん、たのむ(あなた、お願いいたします)」「てげてげ」という薩摩の方言で言われます。「てげてげ」とは、日本語の「大概大概」を薩摩風に言ったもので、大将は最終責任は負うけれども、大まかなマスタープランをいうだけで、現場のことはその場の人にまかせるという意味の人の上に立つ薩摩人のあり方でした。この場合、大将は大山巌、「おはん」は児玉源太郎ということになります。事実、大山はすべて責任を負って、児玉源太郎という天才的な参謀長に作戦のすべてを任せました。そして、日本海海戦(対馬海戦)のあとポーツマスでウィッテと小村寿太郎が講和をむすび、戦争を終わらせることに成功しました。もし、第二次対戦の時の日本の指導者に大山・児玉・小村のような人たちがいたならば、日本はあんな馬鹿な戦争をして、他国へ大変な迷惑をかけることはなかったでしょう。以上、明治人にはrealismがあって、昭和の日本人にはrealismがなかったという、司馬の主張について書いてみました。あなたのブログに感動して、僕も自分の考えをあなたに聞いてほしくなり、つい長文を書いてしまいました。あなたに長文を読む負担をかけてしまってごめんなさい。またね!

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