1 Jun 2015

ゴーリコフスカヤ駅。リドヴァリ。


 第一部 。リドヴァリ。

私は5棟の建物とそれらと関わりのある5人の人物について文章を書きました。それらの建物は20世紀初頭に建てられました。 その5人は、ほぼ同時期に住んでいました。
概して言えば、私の話は、20世紀初頭のロシアについてです。当時は、歴史の転換期でした。君主制の廃止です。 ある人は、その変を受け入れました。 ある人は永遠に祖国を離れることになりました。その人物は亡くなりましたが、建物は保存されました。 現在それらはロシアの歴史を伝えています。

私が話す建物はすべてゴーリコスカヤ駅の近くにあります。
では、今からゴーリコスカヤ駅の一緒に散歩して、20世紀初頭を旅行しましょう。

私が話す建物は1を除いすべてがモダン様式で建てられています。それで、モダン様式について少し話します。ロシアのモダンはロシア帝国の終わりの前兆のようなものでした。

1.

 モダン(モダニズム)という言葉は、西欧ではよく知られています。20世紀の始まりは、モダニズムの時代です。20前世紀初頭にはモダンが文化のすべての分野に広がりました。
モダンというのはとても広い意味がある概念です。芸術だけでなく、その時代の政治に対しても社会に対してもモダンという概念を使います。
でも 今は私はモダン建築についてだけ少し話をします。
モダンという建築の様式の時期は短くて、約10-15年続きました。しかし、この間には何百もの建物 が建てられました。  サンクト・ペテルブルクの中心部を散歩すると、モダン様式で建てられた建物がたくさん見られます。  これもサンクト・ペテルブルクのイメージの一つです。
  モダン様式の建物のデザインには、古典的な建築にとっての象徴的な柱、アンティークの神々アトラスなどありません。 その代わりに、クモ、フクロウ、木の子、北 の森の動物などがあしらわれています。 サンクト・ペテルブルクではこの様式はスウェーデンとフィンランドのモダニズムの影響を受けて、北のモダンといいます。モダンがサンクト・ペテルブルクの建築に影響を与えたおかげで、ロマンチックな、神秘的なスカンジナビアの民間伝承を受けた建築楽しめます。


リドヴァリの家
Дом Лидваля. Каменоостровский проспект 1-3



 この写真は、フョードル・リドヴァリという建築家によって建てられた建物です。 ゴーリコブスカヤ駅を出たら、すぐに見られます。
バルコニーのフェンス建築家の苗字の文字「L」が見えます。

リドヴァリはこの建物を1902年に自分と家族のために建てました。また、そこには彼の建築の工房がありました。
この建物はマンションありました。 






 モダン建築では、ふくろうのイメージがよく使われました。
 
フクロウは、夜の鳥として郷愁と孤独の象徴だということをどこかで読んだことがあります。 モダンのテーマは一方で 昔日への憧れであり、他方では人の道を永遠に探索するロマンチック放浪です。
 多くのモダンの作品は、鬱陶しいです。

モダン建築は、不合理な神話の暗い世界に私たちを巻き込みます。

モダンは前の時代の合理主義の理想を拒否していました。
     モダンにおいては、ロマンチックな人物は創造の自由を高めました。 しかし、 イデオロギーとして新しい社会を作るための力がありませんでした
当時は、 プロレタリアートという社会の階級を形成しました。人生の意味におけるロマンチックな探求は、彼らにとっては贅沢なもののようでした。 彼らは根本的な変化を望んでいました。童話ではなく、新しい現実を欲していたのです。 快適な労働条件、まともな賃金、よい生活などです。
   

モダンは、将来のユートピアを作るのではなく、逆に過去を理想化しました。 モダンは童話のようなものでしかなかったようです。

 1917年の革命の後、リドヴァリは移住することになりました。 移住先は、スウェーデンで、 サンクトペテルブルクに現れるはずだった童話の国です。 ロシアでは、新しい歴史が始まりました。

モダン建築の後来た様式はロシア構成主義といいます。

構築主義にはモダンの建築から引き継いだものがありますが、ロマンチックなものは取り除かれました。

将来への船です:)
トロイツカヤ広場, 1




 第2部



構築主義の一つの例が、ゴーリコブスカヤ駅の近くにあります。 しかし、そのような建築については、またいつか将来話します。
つづく

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